公平・平等に機会を与え、それに対して高い意欲を示す受講生に対しては提供物が自然と増えるだろう。逆に、同じ機会を与えたにも関わらず、意欲に欠ける受講生に対しては、同じだけの提供物を与えることが困難であるばかりか、同じ提供物を与えようとする試みは、意欲の高い受講生に対して逆に不平等になるとさえいえる。これまでの教育現場では、表面的な意味での平等にとらわれ、ややもすると平均程度の受講生の能力・意欲にあわせるというスタンスが一般的ですらあった。ALにおいては、このようなスタンスをとってしまうと、途端に意欲の高い受講生の意欲が下がってしまう可能性もあるのではないだろうか。

では、機会という点ではなく評価や結果という点でALを見たときに、どのようなことがいえるだろうか。ここにA・B・Cという3人の受講生がいるとしよう。A氏は3人の中で最も成績は良いが意欲に欠けた言動ばかりしている。B氏はA氏よりは意欲はあるがC氏ほどではない。ただし、3人の中で最も成長著しい。C氏は非常に高い意欲を示しているが、残念ながら成績の上ではパッとしない。

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ALとは関係なく成績評価をするというのであれば、もちろん、A氏が一番良い成績をつけられるのだろう。一番分かりやすく、ある意味(結果の公平性という意味)では平等といえる。一方、ALが定義上「学修者の能動的な学修への参加」によるものだと考えるなら、講義への参加度合いも成績に反映させたいと思っても不思議ではない。すると、C氏を一番にすべきなのだろうか。多くの高校・大学教員がこのような問題で悩んでいるようである。

この問題に対する筆者の明確な答えはまだ見つかっていない。可能であれば「認定単位」を与えてそれ以上に成績を細分化したくないくらいだ。実は、多くの教員の本音は似たようなものではないだろうか。

ただし、筆者には一つのこだわりがある。それは、上表のような結果になってしまった場合、ALを行う側である教員のスキルや能力が乏しかったのだと考えるべきだということだ。何故か。それは、高度なALにおいては、受講生の意欲と成長度合いは相関しているべきだと考えるからである。つまり、上表でいうと、C氏が最も成長できたというのであれば、その講義は成功だったといえる。しかし、結果(2回目)においても成長度合い(2回目―1回目)においてもC氏が劣っているというのであれば、いずれC氏の意欲も下がってしまうかもしれない。そのような事態を招いてしまったとすれば、それは教員の責任だといえるのではないだろうか。

もちろん、本人がそもそも有していた資質・能力によって結果に差がつくことは否めないだろう。しかし、能動的に参加したにもかかわらず成長が乏しいというのであれば、その受講生は何のために能動的姿勢をもったといえるのだろうか。学修者に能動的な学修への参加を求めるのであれば、そのような参加が奏功することが担保されなければいけないというのが筆者の見解である。

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坂田 隆文

坂田 隆文

中京大学総合政策学部教授、博士(商学)、中京大学教育推進センター委員会能動的学修検討部会部会長。名古屋大学、名古屋市立大学、金城学院大学非常勤講師。マーケティング戦略論、流通論、商品企画論を主な専門とし、「面白さ」と「わかりやすさ」と「有益さ」という3つを重視した講義・研修で定評がある。近著に『1からのリテール・マネジメント』(共編著、碩学舎)、『1からの商品企画』(共著、碩学舎)がある。近年では名古屋で若手企業人を集めた異業種交流勉強会を主宰するなど、活動の場を広げている。詳細は担当ゼミHP(http://www.sakataseminar.jp/)にて。